『映画狂人シネマ事典』と『中国語の部屋』

[pukiwiki]
私自身が、シナリオ(っぽいもの)を書くときには、
(書くように宿題を出されたときは)

+あらすじを考える
(この段階では、言葉による表現)
+場面ごとに強調する部分を考え、余分な部分を引き算する。
+映像としてどんな表現がいいか考える

という順序を踏んでいます。
(具体的なサンプルは、2,3日中に記事にする予定)

3の段階で使うとよさそうだと思っている本が一冊ありまして。。。
[/pukiwiki]


[pukiwiki]
実際のところは、1の段階で詰まってしまうことが多いのですけれども。
*蓮實 重彦『映画狂人シネマ事典』
という本があります。私自身は、以前図書館で借りて。。。ちょっと忙しくて冒頭部を読んだだけで返却してしまったのですけれども。

具体的には、夜の路面は濡れて光っていなければならない、などなどの、割とこまごまとした描写の羅列、なのですけれども。

映画における[[モンタージュ>ググる:映画 モンタージュ]]表現の小事典、だと思ってください。

仮に、ここに一冊の理想的な映画事典が有ったとして、この本を頭から終わりまで順番に読んでいけば、いつかは、自分の表現したい映像表現に関する項目が出てくる、とします。

コンピュータ・プログラミングで言うところの線形探索なので、この方法は、かなり効率が悪いです。

項目を適当に少ない種類の大分類で分割してやったらどうでしょう?

-映画のシーンを大分類でタグづけする
-辞書のなかの、該当する部分のみを読む

大分類の数が2であれば半分の労力に。大分類の数が26であれば、”26分の1”の労力で済むはずです(理想的には)

だから、このサイトでタロットカードをタグ付けに使っているのは、いわば『たまたま』 数が適当で、且つ、絵柄が使いやすく、私自身もなじみがあり(マンガ「ジョジョの奇妙な冒険」好きですし)、タロットカードというものの存在自体を知らない人も少ないだろう、という事務的な理由が大きいです。同様の理由で、シナリオライティングソフト「DRAMATICA」に使われている もう一つのタグ 「チェスの駒の動き」 は、このサイトでは使っていません。チェスが判らないからです(汗)

実際には、まだ私は自分用の『映画狂人シネマ事典』を入手しておらず、従って、各項目のタグ付けもまだ行っていません。実際の作業として行ってみると、案外、タロットカードでは、大分類で分割しがたいかもしれません。

もうひとつの方法論は、フローベールの小説に出てくる人物たちのように自分で事典を作る、というやりかた。
このblogも、10年も継続すれば、(少なくとも自分にとっては)使いでのある事典になってくれる、といいなぁと思っているのですけれども。

ただ、読者のことを考えると少し疑問も。
なにしろ、タロットカードを使った大分類は26種類しかなく、数ヶ月で、すぐにネタが一巡してしまうから、読み手は、あくびを禁じえないはずです(汗

ところで、『適当に辞書をひく』 という機械的な行為と、創作という創造的行為を同等に扱うというのは、いかがなものでしょうか?

そんなことを考えたのは、私だけではなかったようです。
科学者が人工知能を作ったとして、それに本当に知性が有るのか無いのかを判定するにはどうしたらいいか、その思考実験、チューリングテストの変形バージョンです。

-[[チューリング・テスト再考:http://mtlab.ecn.fpu.ac.jp/myNote/reconsidering_turing_test.html]]
-[[チューリング・テスト ウィキペディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88]]

*[[ググる:中国語の部屋]]
“[[中国語の部屋 – Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E3%81%AE%E9%83%A8%E5%B1%8B]]
ある小部屋の中に、生まれてこの方、英語しか話したことがないような人(例えば英国人)を閉じこめておく。この小部屋には外部と紙きれのやりとりをするための小さい穴がひとつ開いており、この穴を通して英国人の元に一枚の紙きれが差し入れられる。そこには彼の見たこともないような記号がズラッと並んでいる。これは実は漢字の並びなのだが、英国人の彼にしてみれば、それは「★△◎∇☆□」といった記号の羅列にしか見えない。彼の仕事はこの記号の列に対して、新たな記号を書き加えてから、紙きれを外に返すことである。どういう記号の列に、どういう記号を付け加えればいいのか、それは部屋の中にあるとびきり分厚い一冊のマニュアルの中に全て書かれている。例えば”「★△◎∇☆□」と書かれた紙片には「■@◎∇」と書き加えてから外に出せ”などと書かれている。
 
彼はこの作業をただひたすら繰り返す。外から記号の羅列された紙きれを受け取り(実は部屋の外ではこの紙きれを”質問”と呼んでいる)、それに新たな記号を付け加えて外に返す(こちらの方は”回答”と呼ばれている)。すると、部屋の外にいる人間は「この小部屋の中には中国語を理解している人がいる」と考える。しかしながら勿論、小部屋の中には哀れな英国人がひとりいるだけである。彼は全く漢字が読めず、作業の意味を全く理解しないまま、ただマニュアルどおりの作業を繰り返しているだけである。それでも部屋の外部から見ると、中国語による完璧な対話が成立している。

さて、この『中国語の部屋』には、知性は有るのか?無いのか?
映画事典を引いて、それを引き写す、という作業(すなわち、今、まさに私がしようとしていること)はどうなのか?創作という、ある種 神聖な行為に対する冒涜ではないのか?

個人的な意見としては、『創作としてはどうかと思うけれど、制作テクニックとしては有りかも、”超邪道だけど”』です。
自分はヒアリングが苦手なのですけれども、いざとなったら、まったく話が通じないよりは、指差し会話帳使ってでも会話できたほうがええやん、という考え。
志が低いなぁ(汗
[/pukiwiki]

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。